|
廉塾鳥瞰図 |
|
⇒ 頼山陽の描いた廉塾 |
神辺七日市通りの様子 |
|
|
JR神辺駅を北東にすすむと
近世山陽道の面影を残す町並みをすぎ
左手に、こんもりしたクスノキが見えたら
そこが菅茶山の旧宅です。
格子戸に飾られた
季節の花 |
|
|
神辺のお土産に「茶山饅頭」はいかがですか。
お店は七日通り廉塾のすぐ隣り
限定生産なので買い求めはお早めに!!
|
廉塾門 |
|
|
大きなクスノキを目印に、廉塾正門に着きました。
若き日の頼山陽もこの門をくぐったことでしょう。
はるか向こうに中門が見えています。
門に入るその前に、
白壁の右手、竹垣の内側に立つ案内板に
眼を通してください。 |
廉塾案内説明板 |
|
|
この案内板を読んでいただくと、
これからご覧になる廉塾のポイントと
菅茶山についての概要を知るとができます。
●説明板詳細(リンク) |
正門から見た廉塾全景 |
|
|
それでは中に入って見ましょう。
門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、
両側は畑になっています。
寮生たちはこの畑で野菜を育て、
自給していたといわれています。
格子戸のついた中門までは30mくらいありそうです。 |
特別史跡指定の石柱 |
|
正門を入ったすぐ右に石柱が立っています。
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は
1953年に
国の特別史跡に指定されています。 |
|
廉塾養魚池 |
|
|
中門の左手前に養魚池があります。
通常は養魚に使い、
火事にそなえては防火用水にという
用心深く合理的な考えから作られました。 |
養魚池の中に石碑が立っています。
「廉塾養魚池 政酉(寛政の酉年=1789年)、
杪冬(12月)につくる」と書かれています。
この文字もまた茶山の書と言われています。 |
|
槐 寮(南寮) |
廉塾と槐 (エンジュ) PDF |
|
この建物は「槐寮」と名づけられた塾生の寮舎で
〔カイリョウ〕と読みます。
槐はエンジュという木の名です。.
現在残っている寮舎はこの建物だけですが、
文書によるとこの他に南寮・敬寮があったようです。 |
講 堂 |
|
|
廉塾は最初「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)
と名付けた私塾でしたが
、公的なものとすることで末永い存続を願い、
塾と田畑を福山藩に献上し、藩校となりました。
福山藩には弘道館という藩校があり
藩士の子だけが学習していましたが、
廉塾では全国から藩の枠や武士以外の子供も
身分をこえて、勉強していました。 |
|
|
方円の手水鉢 |
|
|
廉塾の講堂前にある手水鉢です。
御影石が丸と四角に彫られています。
「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、
人も教育によってよくも悪くもなると
教育の大切さを表したものといわれています。
この手洗いは講堂の濡れ縁から使いました。
右後の濡れ縁は板と竹を組み合わせたもので
茶山の優れたデザイン感覚がうかがえる秀作です。 |
水路と筆洗い場 |
|
|
講堂の前に流れる水路です。
塾生はここで筆を洗ったといわれています。
この水は廉塾の裏手を流れる高屋川から引いたもので
ここを出発点として
今も神辺の町の中をきれいな水が絶えることなく
流れています。 |
高屋川 |
|
|
廉塾のすぐ裏に神辺を東から西に貫いて流れる
「高屋川」があります。
昔の堤防は今よりも低く
廉塾から北方がよく見えたようです。
この写真は川下、西の方角を写したものです。 |
廉塾講堂ごしに黄葉山を望む |
|
|
高屋川の土手に上がると、
廉塾の裏手から講堂の屋根が見えます。
屋根の向こうには
「黄葉夕陽村舎」の語源となった黄葉山が見渡せます。
廉塾訪問のおりには、
茶山も眺めたこの土手からの眺望を
ぜひお楽しみください。 |
茶臼山 |
|
|
同じ土手に立って
廉塾から反対の北の方角を見ると、
はるか遠くにこんもりした山が見えます。
(写真中央の小高い山)
これが菅茶山の名前の語源となった茶臼山です。
現在では要害山と呼ばれるのが一般的となっています。
|